Mitla 2012













株価や為替や国債の評価がその国の豊かさや国力ではない
国を思う心こそがその国の真の力である
想いを取り戻したい
皆が皆を思い遣る

「お出かけですか?」
「ちょっとそこまで」

そんな気軽な会話が溢れるかつての日本は
美しかった
今でも
アラブ世界
ラテンアメリカ
非西洋社会では当たり前に見られる習慣
ロッコで交わした衝撃的会話
「日本になんか行きたくない。だってだれも道端で会話しないんでしょ?そんなよそよそしい人たちの国には絶対行きたくない」
正確にはその通りではないが
東京のような経済都市では会社員のような人たちは出勤中歩みをとめて会話に花を咲かせるようなことはあまり見られない
会議や待ち合わせに遅刻しないことが美徳とでもされているようだ

資本主義や効率優先の考えとともに経済至上主義によって失われてきた大いなる喪失
国を担う若者たちの国外流出
国力の流出に歯止めがかからない現状


国を立て直すために今の教育制度を見直さなくてはならない
どれだけ時間がかかろうとも
変えてゆきたい
誰のための何のシステムなのか
考えていただきたい
先ずは正しい認識を!



諸悪の根源「戦前暗黒史観」との決別

 「曳かれ者」とGHQが広めたデタラメな歴史にいつまで囚われているのか(上智大学名誉教授・渡部昇一 月刊正論2月号)


共産主義が日本を変えた


 このたびの衆院選挙で圧勝した自民党は、憲法を改正して自衛隊を「国防軍」とすることを公約として掲げています。それに対して、野田佳彦首相は選挙戦で「時計の針を戦前にまで戻すのか」と批判し、マスコミもその言葉通りに報じました。

 「戦前」という言葉が、当たり前のようにネガティブな意味で使われる。このことは、戦前の日本は「悪くて暗い国だった」という認識が国民の相当数に共有されていることを示しています。私はこれまでも繰り返し、この誤った思い込みを批判してきましたが、戦後の日本が真っ当な国になることを邪魔し続けてきた「戦前暗黒史観」は、いまだ根強く生き続けているのです。

 日本の近代史は、ロシア・ソ連、そして共産主義というものに大きく害されてきたと私は思っています。明治時代にロシアが満洲朝鮮半島に進出してこなければ、日本は日露戦争をする必要もありませんでした。当時ロシアは満洲を実質的に支配し、黄河以北のシナ大陸は100%ロシア領になりかねない情勢でした。朝鮮も「コリアスタン」化目前で、そうなると壱岐対馬も目標にされる。旅順に続く不凍港を確保するため長崎辺りまで欲しいとロシアが言い出す可能性すらありました。

諸悪の根源「戦前暗黒史観」との決別

 日露戦争(明治37〜38年)に勝利した後、日本は順調に民主主義の道を歩んでいました。大正2(1913)年に成立した第三次桂太郎内閣は、・憲政の神様・と言われる尾崎咢堂たちから弾劾演説を受けて潰れました。演説で内閣が倒れるような事態は、イギリスの議会政治が最も栄えたディズレーリやピール首相の時代を思わせます。

 この着実な日本の民主主義国家としての歩みを歪めたのが、第一次大戦(1914〜1918年)と、それに続くロシア革命(1917年)と共産主義でした。日露戦争の勝利から10年後に始まった第一次世界大戦には、当時の国際的な慣習に従って、日本からも観戦武官が派遣されました。ヨーロッパでの戦いを目の当たりにした彼らは、日本はもう戦争できないのではないかという恐怖感を抱いて帰国しました。しかし日露戦争に勝った後で、そんなことを口にすることはできません。

 唯一、口にしたのが日露戦争で活躍した海軍の秋山真之です。彼はフランスで、男がみな戦場に行ってしまって留守になった工場で、女が働いて武器をつくっていたことに驚きます。国家総力戦(トータル・ウォー)の実態を目の当たりにして、彼は同じことは日本ができるわけがないと感じたのだと思います。

 総力戦体制以上に、誰も口にできない恐ろしいことがありました。石油の出現です。この新しいエネルギーによって、第一次世界大戦の戦いの様相は、石炭エネルギーが主役だった日露戦争とは全く別のものになっていました。イギリス艦隊の燃料は重油になっていました。日露戦争までは陸戦の花だった騎兵にとってかわった戦車や飛行機という新しい兵器の燃料も石油でした。石炭は日本でも豊富に採れましたが石油はまったくありません。その事が、観戦武官たちを震え上がらせたのです。

諸悪の根源「戦前暗黒史観」との決別

 総力戦と石油という難題への向き合い方は、陸軍と海軍では違っていました。陸軍の仮想敵国はロシア(ソ連)で、石油の問題はそれほど深刻ではありませんでした。彼らが懸念したのは総力戦への対応です。そこで陸軍には二つのグループができます。一つは皇道派です。陸軍大学に行かないノンキャリア青年将校たちは、日本を変える手本をソ連に求めます。

 1929(昭和4)年に世界大恐慌が起きますが、ソ連の経済だけは5カ年計画で着々と伸びていると伝えられていました。そこで皇道派青年将校たちはソ連に新しい国家体制の手本を求め、元老も華族も資本家も地主もすべて除去して天皇と国民が直接結びつく社会を構想します。天皇を奉るほかは、暴力で体制を変えようとした点も共産主義と変わりません。彼らに影響を与えた北一輝は右翼と言われていますが、実は左翼思想の持ち主でした。彼らは二・二六事件を起こして自爆してしまいます。

 もう一つの陸軍のグループは統制派です。こちらはキャリア組です。彼らは日本を総力戦が可能な国へと、暴力によらずに変えようと考えます。二・二六事件皇道派が自爆したことが統制派に有利に働きました。暴力を使う気はないけれども、「軍部に反対すると、また二・二六のような事件が起こる」と言うだけで、相手を黙らすことができます。そして事件後、広田内閣が陸・海軍大臣の現役制を復活させたこともあって、山本七平さんの言葉によれば、陸軍が「日本国そのものを占領した」のです。

諸悪の根源「戦前暗黒史観」との決別

 統制派と憂いを同じくしていたのが、「新官僚」あるいは「革新官僚」と呼ばれた官僚たちです。統制派は彼らと協力して国家改造計画を立てました。シナ事変から大東亜戦争を遂行した日本の体力は、統制派と新官僚が整備したと言えます。彼らの計画がなければ、昭和10年代に数万の飛行機をつくり、大海軍をつくり、シナ事変であれだけ戦って、しかもインフレを起こさないなどということはできませんでした。しかし、これは左翼の計画です。新官僚たちはもともと左翼的で、摘発されて転向したような者たちが多く、彼らの頭の中は左翼のままでした。ただ、天皇を戴いていたので、そのことは当時の日本人には分かりませんでした。

 海軍の反応も二派に分かれました。石油がなければ軍艦を動かせない、戦争ができないとピンと来たのが「条約派」です。彼らが石油資源のことを考えて米英とも妥協したのが、ロンドン及びワシントン海軍軍縮条約です。加藤友三郎山本五十六がこの条約派です。一方、石油を重視しなかったのが「艦隊派」です。彼らには大砲の大きさや艦船の数だけが重要でした。

 そうやって陸海軍は分かれたけれども、結局日本を制したのは統制派であり、統制派の幹部たちは忠君愛国と言いながら、左翼思想で総力戦体制を作ったのです。だから戦後に内閣に入った軍人でも、実は左翼だったという者も数多くいます。結局、日本の戦時体制は、右翼の衣を着た左翼の体制だったのです。


GHQと「曳かれ者」による洗脳


 日米戦で、アメリカは日本の強さに驚きました。特攻隊はもちろんですが、航空母艦でもそのことは明らかです。当時はソ連にもドイツにも空母の建造能力はありませんでした。イギリスは空母を保有していましたが、機動部隊として運用していませんでした。空母機動部隊を実戦運用できたのは、世界中でアメリカと日本だけだったのです。アメリカはそんな日本を恐れました。

 アメリカは日本の強さの根源が国民の愛国心にあることを見抜きます。愛国心は歴史からしか生じませんから、日本を弱体化するために国民から歴史を奪おうと考えます。そして日本を占領すると、「このたびの戦争は右翼ファシズムと民主主義の戦いだった」というプロパガンダを始めました。戦前の日本を「右翼ファシズム」と貶める日本人洗脳計画です。