メディア

 私達の用いている言葉はいわば狼穽(ろうせい)のようなものだ。それは獲物(えもの)を取るには役立つけれども、私達自身に向かっては妨げにこそなれ、役には立たない。あるいは拡大鏡のようなものだ。私達はそれによって身外を見得るけれども、私達自身の顔を見ることはできない。あるいはまた精巧な機械といってもよい。私達はそれによってあらゆるものを造り出し得るとしても、ついに私達自身を造り出すことはできない。

 言葉は意味を表わすために案じ出された。しかしそれは当初の目的からだんだんに堕落した。心の要求が言葉を創った。しかし今は物がそれを占有する。口ごもることなしには私達は自分の心を語ることができない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢(りゅうちょう)であるためしがない。心から心に通うためには、何んという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。

 のみならず言葉は不従順な僕(しもべ)である。私達はしばしば言葉のために裏切られる。私達の発した言葉は私達が針ほどの誤謬(ごびゅう)を犯すや否や、すぐに刃(やいば)をかえして私達に切ってかかる。私達は自分の言葉ゆえに人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智となり、魯鈍(ろどん)となる。(有島武郎『惜しみなく愛は奪う』)